日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

エッセイ試運転

 随筆、或いはエッセイと呼ばれるものを書いてみようかと考えている。日記や備忘録、出来事やそれについて何を感じどのように思ったのかなどは既に書いているし、そういう類のものを書く時、これは自己卑下でも何でもないのだけど、私の文章はつまらないのだ。正確には、笑いに特化しようとか、感情移入を求めようだとか、いやいやただただ事実に即した文書にしようだとか、要するに一貫性なく恣意的なのである。

 

 という訳で。

 

 今私は駅前の喫茶店に居て、割と年配の方が多く、同時に店内で鳴る音楽のボリュームも大きいので、それに子供の声もするので、自衛の手段としてイヤホンを装着している。それでも曲と曲の間などでそれら外界の音、声の塊や古臭いダンスミュージックのキックとか、やだわ今日はあたしが払うからいいのよう、といったものがイヤホンをすり抜けて鼓膜まで届く。

 私は昔から音に敏感な性質である。今でも雨音というものが苦手でならない、雨の日は空の色だけで傘をさすという手間だけで憂鬱で億劫で軽い希死念慮すら呼び寄せるというのに、更に雨音、これが私にはたまらない。結構な拷問である。今私の目の前で本を読んでいる人は、雨音を聞くと安心するとかのたまうのだが、私はもうダメになる。雨の日はウォークマンの音量を通常の三割増しくらいにしないとしのげない、低気圧とかいうやつが頭痛や目眩や倦怠感をも食らわせるというのに、その上雨音ですかと。でもこの苦痛はあまり共感を呼ばない。問題は他者がどう感じどう測るかではなく、私にとってはもはや雨音をやり過ごすのが苦行であるというシンプルな事実だけ。

 

 トーキョーに越して来るまで、私はあの人の言葉を借りるところの「哀愁のチバラキ」に住んでいて、一番近い山手線の駅に出るまで一時間から一時間半かかっていた。電車は嫌いじゃない。座ることができれば。田舎の電車であるから人は多くないしそもそも私はラッシュとかそういう時間に電車に乗ることが出来ないというか出来ても不得手で、まあだから大抵は空いている時間に乗車するんだけど、電車の走行音や窓から見える景色の変化は、九割九分音楽と共に聞き、眺めていた。ソニーのヘッドホン、普通の型じゃなくて耳を覆う卵型のもので。私、身体の割に耳が大きくて、しかも耳が直角ですかというくらいに側頭部に突き刺さるが如くはえているので、一般的なヘッドホンは長時間装着していると頭痛を引き起こすという難儀な星のもとに生まれた。卵型ヘッドホンは何度も買い換えて、多分16才くらいから29才くらいまで愛用していたのだけど、ちょっとしたきっかけで壊れてしまった時、買い換えるだけのお金がなく、しょうがないのでウォークマンの付属品だったイヤホンをしてみたら、やあこれは音が良いではないか、と気付いて、しかもかさばらない、という利点もあって、かれこれ二年ほどイヤホンユーザーだ。イヤホンも進化しているね。

 

(と、書いていたら、大変かしましいご老人集団約七名が隣のボックス席に移動してきて、彼らの声ときたらイヤホンもそこから鳴るロックミュージックをも貫通するもので、時計も六時を回ったし、腹は減るし、そろそろ帰ろうかと思い始めた)

 

 帰宅したのだけど何の話だったか、音の話だ。音楽ではないところが個人的なポイントである。音楽について語り出したら恐らくはそれだけでブログが二つくらい必要になるのだ、恐らくは。

 自宅、実は静かではない。目抜き通りに面した建物の三階なのだが、それ故に、通行人の声や声、自転車・原付・バイクといった乗り物のブレーキ音、周囲の店舗が放つ様々な形の音、が、寝室の二面の窓から押し寄せてくるのであって、物音なんて車の走行音か犬の遠吠えくらいしか聞こえなかった哀愁のチバラキ出身の私は、これらに慣れるのに随分とかかったものだ。越してきてちょうど五ヶ月。地元の人混みには何とか慣れてきたが、最寄りの山手線停車駅の怒濤の人の群れには、まだ、生憎、慣れていない。

 

 音の話。そう、哀愁のチバラキに居た頃は電車内や移動中は必ず音楽を聞いていたのだけど、何しろここは曲がりなりにもトーキョー、電車に乗るのも長くて十五分とかそのレベルであるから、わざわざウォークマンとイヤホンを取り出して聞くという発想にすら到達出来ない。その暇さえない。自宅から駅までも近いので、最近ではウォークマンを持たずに外出するという、この約三十年を振り返るに、結構有り得ない芸当が日常化してきていたりする。人間の変化というのは決して全て意識的に行われる訳もなく、外的要因が鈍器で殴りかかってくるみたいにぼかーんと来て、でもその時はその要因と向き合うのに必死だからぼかーんにも気付けなくて、ちょっと経ってから、嗚呼あの時殴られたわ、そんで今の自分はもはや過去の自分ではないのだな、と気付くようなこともままある。

 

 変化といえば私はあの人や彼に出会ってから外見的にも内面的にもかなり変化に変化を遂げ、これはもはや脱皮なのではないか、過去の私は抜け殻に過ぎないのではないか、今の私もじきにすぽんと脱げるのではないか、と思っている昨今であるが、その変化たちを諸手を挙げて歓迎しているかというとそんなことは勿論ない。

 新しい音楽をほとんど聞かなくなった・好きなバンドが減った・音楽の情報を追わなくなった、といった変化は、私個人は感覚的に、「走るのを辞めた」、という言葉がしっくりくる。これは単純に年を取ったせいでもあるし、私の主たる情報源であるインターネットがSNSの台頭によって様変わりしたという要因も大きいし、もしくは某バンドのように私が「健忘」してしまった、というケースもある。いずれにせよ走るのを辞めた私はゆっくりとのびのび歩きながら、たまに立ち止まって深呼吸をしたりして、昔の速度を懐かしく思うことはあっても、今更再び走り出す気には、あんまりならない。

 しかしこれには大いに戸惑った。今でこそ冷静に書けるが、音楽、ことロックミュージックに強くアイデンティファイしていた私、つまりロックに自己同一性を丸投げしていた私が、音楽を聞かなくなる、換言すればそれはもはや「私」ではない、それくらいの勢いの話だ。戸惑いも当然というもの。でも人間の適応能力というやつは時に人間離れしていて、それにも慣れてしまう。つまり、ロックを脅迫観念的に聞かなくても自分は自分である、と半ば開き直るのだが、未だロックを聞く友人知人らにこういった話をすると「日和ったな」だとか「年寄り乙」とか罵倒、罵倒の嵐。