日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

DP/DR, 言葉は無限か有限か、その他

 英語圏では「DP/DR」という略称があってこれが大変に便利なのだけど日本語にすると「離人感/現実感喪失」とかえらい長い上に略せてない感が大変にあって大変もどかしい。という話を友人にしたら、自分で「DP/DR」を広めたらどうだ、と言われたので、ここではいわゆる離人的感覚や現実感の希薄さを「DP/DR」と表記することにする。

 私が患っていると思われる解離性障害はこのDP/DR抜きでは語れないが、そういった話をする場所は他にあるので、そしてDP/DRってどんな感じなのと問われてもこうですよ、と簡単に説明すること、これ困難の極みであるので、とりあえず私は今でもDP/DRに困っていますというステイトメントだけ。

 

 DP/DRとは別に、連続性のなさは何と言うのか、私はまだ知らない。そんな言葉があるかも分からない。DP/DRと無関係ではないというかかなり近いものだと思うのだけど。日々や時間がつながってないんだよね。断絶、ブツ切り、その時だけ。記憶について軽く書いたけどDP/DRと健忘、あと解離な、これらが渾然一体となって私に襲いかかるもんで私はもう、とにかく書く、書く、書いて読み直す、読み直して過去・自分の足跡を確認しつつ、時に書き覚えのないものを見付けて喫驚、もしくはとても自分が書いた文章・意見とは思えぬ代物に出会って驚愕がくがく、そんな日々をここトーキョーで過ごしている。

 

 若い頃はそりゃ自己憐憫にどっぷり浸っておって、自分のことを記憶を持たない根無し草だと決めつけて思い詰めて結果思い込んでかえって悪化して、みたいな悪循環。このサイクルから脱出出来たのは、もっと若い頃に私の命を救ってくれた恩師と邂逅した時の言葉がきっかけで、でもちょっとあの時は再会の喜びが強すぎて色々話しすぎて具体的にどの言葉で根無し草脱出したのか不明っていう。でもあれだな、恩師の一つの言葉というよりは、あの時の先生の表情だとか間に入ってくれた年上の友人の存在だとか津田沼のレストランの雰囲気やら喧騒だとか、そういったもの全てがこのように私に作用したのではないかな、と踏んでいる。そういうことは結構あって、物事、言葉一つとかね、ピンポイントで「これです」と易々と差し出せるもので変容するもんでもなくて、本人すら意識していないところでその「これです」を包み込むたくさんの要素、ファクター、包装紙、それらが実はがっつり手を組んでいてその上で作用していることは多いんでないかな。私はそう思うな。

 

 だから、言葉というのは音声としても記号としても発せられるものだから気を付けなければならない。聴覚にも視覚にも来る、多分皮膚にも感触が残る。ネットの恐いところはまさにそれであって、言葉が視覚でしかほぼ存在・拡散し得ないからして、例えば今私はなるべく自分に正直にこれを書いているのだけど、書きながらもイヤホンで音楽を聞いているしその隙間から生活の雑音も聞こえてくるし日光はいい感じに射し込んでくるし、私のこれら言葉、貴方が今目にしているこの活字、ないしはこのブログ全て、は、単体では発生しない・存在し得ないものだということは、ネットがここまで爆発的に浸透している今日において留意すべき点ではないかと。

 

 この前ル・クレジオの「発熱」を読みながら、嗚呼、言葉というのは本当に本当に無限なのだなぁと感嘆していたら、ちょうどその次の段落で「無限、無限は存在しない。有限なものにとってしか無限は存在しない」とあって、嗚呼これだからクレジオ先生は恐ろしいのだ、二十歳やそれ以前で「調書」とか書いちゃう人が居るから世界は奥深いのだ、なんてこの世の途方もなさに思いを馳せて、まあ私ごときには馳せきれるもんではないのだけど、言葉というのはね、DP/DRといった現象に起因して書くことを命綱としている私にとっては、本当に器用にうまーく巧みに選んで使わないといかんな、と思った、ドトールでアイスラテを飲んでいる時のこと。