日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

ハピネス、done!

 切望していた絲山秋子さんのエッセイは彼が仕事帰りに大型書店で買ってきてくれることになって夕飯の支度を終えた今とてもハッピー、スキップなどしたくなる。しかしおかしなもので、今朝は地震で一気に気分が陰鬱陰惨凄惨として四時間半も拘泥し、午後になって本屋とドトールに行って買い出しに行って、その間も例の声は聞こえていたはずで、備忘録を見れば随分と頓服薬を飲んでいるというのに、あ、例の声というのは私の症状の一つで幻声に近いものなのだけど、とにかく一連の家事を終えて彼の帰りを待つ今、気分というか頭というか脳の動き、機能がすこぶる快適・快調であることに驚きを隠せぬ。終わり良ければ何とやらなのか、はたまた夕飯作りというミッションを完遂した達成感であるのか、単純に絲的エッセイが楽しみなのか、まあよく分からないけど今日というか今は悪くない。気がする。

 

 先ほどツイッターで発見したのだけど、町田康の読書会というのが来月行われるらしい。詳細はまだ見ていないのだけど、生で町田康さんを見たのは2004年? 「パンク侍、斬られて候」のサイン会以来であって、しかしながら私は「告白」の途中で挫折してその後はほとんど読めていないのだよ。そんなんで参加していいんだろうか。課題図書は昨今よく目にするもので興味がない訳ではないが、そう文庫本、今単行本を置ける棚がなくて出来る限り文庫本を買いたいのだよ文庫本。絲山さんのエッセイだって彼には文庫を買えと念を押しに押し押し。それ以前に開催地が神奈川県と書いてあったのだけどトーキョーからどう行くのだ、日曜の昼だからまあまあ行けないことはないだろうが交通費がね。お金。いつもそうだ。お金の前で私は無力。

 

 さっき「今日は悪くない」と言い放ったこの口だが、これから「ただし」を発する。ただし、就活は出来なかった。正直こんなん書いてないで求人でも見ろやという声も少なからずする訳であるが、声なき声、医者が言うには私自身の無意識の叫びだとか機能性幻聴だとかとかく彼らの意見は一定しないのだが、それら声声声に振り回されるのはかなりだいぶ相当しんどいことで、時には今日のように声だとか自責の念だとかをガン無視して精神衛生に気を遣うのも有りだと、私は思う訳だけど、それも甘えだろって声、やかまし

 

 日々しのぐ。何かをしのぐ。しのいで生きていく。前の主治医は毎回診察の最後に「じゃあ次回まで何とかしのげますように」、目一杯の笑顔で言うのだった。しのぐ。何を? それは生きづらさであるかもしれないし自己否定自己否定自己全否定ないし自責の念、自らの首を絞める自らの手であるかもしれないし、もしくはアレ、外的な、もう自分じゃどうしようもない困難苦難、その類であるかもしれないし、或いはシンプルに「生きる」ことをしのぐ、の、かもしれないね。