日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

青春、ヘンアイとまたあの人の話か?

 青春っていうのは十代とか二十代前半に体感しなければいけないなんてことは決してないと思うし人間幾つになっても何かに熱を上げたりのめり込んだり出来る生命体のはずで、しかし青春というのは一体何だろう。自分の青春はあの時期とか、いつからいつまでとか明確に考えていたり提示する人も居るんだけど、私は断固戦いたい、一生青春出来るはずだと。七十才からの甘酸っぱい青春、かっこいいじゃん。

 

 しかし自分の青春、一般的に青春と見なされる時期は幸か不幸か私にもあったのだ。高校は一年の一学期しか行かなかったんだけど、その一学期が全くアオハル、気の置けない仲間が居たり憧れの先輩がおったりちょっとした火遊びをしたみたり、嗚呼なんか典型的過ぎて我ながら泣けてくる。でもその青春楽しかったかと言われればそうでもないし、高校辞めてからも青春あったし、NYに居た時は青春よりもメンタルが瀕死、帰国してしばらくしてから変な大学に入ったんだけどそこでも青春っぽい体験をした。年齢的にはこの辺りが私の青春の限界。

 

 疑問なのだが青春というのは恋愛要素を含まないといけないものなのだろうか。「青」というブルーと「春」というどこかピンク色を想起させるこの青春というやつに、恋愛、しかも片思いならなお良し、的なニュアンスを感じ取ってしまうのは何故だろう。しかし青春=恋愛にしてしまうとこれ年齢とかもはや関係なく単なる恋愛期を表す単語になってしまうがそれはちょっと青春っぽくない。今Yahoo先生の辞書に青春の定義を聞いてみたいのだけどここは一つぐっと我慢、耐えてもう少し独りで不毛に考えてみたい。

 

 恋愛は別に人生の必須イベントでは決してないのだけども、「偏執狂的愛情」略して「ヘンアイ」は割と必須というか、いや履修しないと留年という訳ではないしそもそも人生を留年って響きがまた面白いけどそれは置いて、ヘンアイはね、私個人の意見ですが、ないよりはあった方が日々における何かしらの潤い、歓喜や落胆、失意や多幸感、それら色々をよりビビッドに味わえるように思う訳。勿論ヘンアイ対象は人間である必要ではなくて、それどころか三次元である必要もなくて、とにかく恋をする・焦がれる・たぎる、そういう対象はやっぱ、欲しいなぁ私は、と。作家の筒井康隆先生が著書「創作の極意と掟」の中でこういったヘンアイの重要性を説いていた。それは創作に必要なものといった意味合いで「密かに想い続けること」と書かれていたんだけど、別にクリエイターやそれ志望者のみならず、誰もが何らかをヘンアイしておれば様々な感情に襲われてそれは時に辛かったりもするのだが、平坦さや無感情の状態を求める人以外は、やっぱ必須っつーかベターなような気がするのだ、人生の純度的に。

 

「それって要は趣味に没頭しろってことなの?」

 うーん、趣味でもいいんだけど命がけの趣味だとなお良し、みたいな。当然ね、そんな生き甲斐なんて全ての人が得られる訳じゃないから、ただ今青春真っ直中に居る若者諸君は人生を賭すに値するヘンアイ対象を今の内に探しておけばいいんでないかな。別になくても死なないけどさ。

 だけどよくよく考えたら青春と呼ばれる時期に独り密かに趣味というヘンアイを磨き続けていたら実体験としてのアオハルは得られないのか? これまた青春というと仲間が居て、みたいなイメージがあるけども、私は独りっきりの青春も大いに有りだと思うクチではあるが、そこは各人が青春に何を求めるかで変わるか。どうかな。

 

 とかいうことを考えるのは最近私自身がヘンアイ不足というか、ヘンアイの形が変わってきているからだと思う。過去にヘンアイしたのは主にロック・ミュージシャン、勿論今でも大好きな人は居るけど、音楽を執拗に追わなくなったように、彼らに惹かれる度合いも私の中では変化しつつあるなぁ、とつくづく。彼という恋人の存在、真っ当な恋愛をしているのも関係しているかも分からんが、うむ、でもちょいとばかり固執するというか追いたい存在もまた、未だに、居るけど。その意味合いにおいては、私もまだ青春の渦中で溺れかけているのかもしれない。泳げないことはないけど、動きが非常に遅い、だから多分息が続かない、だから必死で呼吸。呼吸をして。