日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

書くことと書く環境、あと目標

 駅前のドトールは昼時だけど幸い空いていて、ジャーマンドッグを昼飯とした私は珍しくイヤホンをせずに店内のBGMと喧騒の中。このところ何を書いても座りが悪い感じがしていて、手書きのノートくらいしか書けなくて、嗚呼文章、文章はやっぱりもっと面白くしたいのだと思うのだ。そのためには訓練鍛錬が必要な訳でこのブログを作ったのも練習のためであって練習の場であるここすら納得いかなくて更新が鈍くなるのは本末転倒だと思うよ。何事も最初から完璧は無理だ。もう一年半になる。つまり、文章力を高めたいと思って色々書き散らかすようになってから一年半、未だに自分で納得出来るものは書けないのだけど、人目に晒すと意外な評価を頂いたりするから一概に全部が悪いとは言えない。私はなるべく自分の書いたものに責任を持ちたい。書く時は素直でありたいし言葉に対して誠実でありたいと思うのでそこは日々努力している。

 

 書くことと記録することは私の中で半分イコールで半分は違う。書くことで整理出来たり発散出来ることがあるのは事実で、日常では主に私は自分の感情の整理だとか事実確認だとかいった記録を書くのが主。それらは読み直さないと意味がない。だから私は結構読み直す。自分の文章、一番古いものは小学校五年生の頃のものから残っていて残していて、私はいくらそれらが用無しであろうとゴミであろうと場所を取ろうとそれらを捨てることが出来ない。

 

 私はブログという媒体が好きだ。単純に備忘録として極めて優れているという理由もあるしCSSをいじったりして好きなようにカスタマイズ出来るという意味でも好きだ。ブログは正直、多過ぎると思う、今、幾つ動かしているか数えるのもめんどいくらいある。以前臨床心理士にこの話をしたら「書く環境を整えるために、少し減らした方がいい」と言われて結構整理したのだけど、それでも片手では数えきれない。多くは公開してないし、私の中では書き分けが出来ているつもりだけど。書く環境。自宅ではなくこうして外で書くのは、気分転換でもあるし書き易い場所に自分を置くという意図もある。私はテキストエディタを二つ使い回していて、今もエディタにこれを書いている。書く環境。物凄い長文を書く時は、昔から一太郎と決めている。一太郎は基本的に明朝体で文字が表示されるのだけど、それに書き過ぎて煮詰まった時はこのエディタを使ってメイリオで書くこともある。私は外見を重視する。フォントは重要。本当に重要な書き物は必ず紙に印刷して推敲する。音読することもある。言葉のリズム、句読点の位置、縦書きになった時のレイアウト、等々を確認する。

 

 それでも言葉というやつは、まあ私のメンタルに起因する現象かもしれないけど、突然ふっとどこかに行ってしまうことがあって、スピーチレスな状態、何か書きたいのに、目の前に白い紙ないしはキーボードがあるのに、指が動かないなんてことはざらにある。もしかして私は書き過ぎているのかもしれない。全てを書いて記録するなんて実際問題無理なのだ不可能なのだ。でも私は白い紙やPCの液晶の空白を見ると言葉で埋めたくなる。その欲求・衝動は名状しがたいもので、強迫観念にも少し似ているが本質は違うものだと思う。「書かないと私はダメになる」、これは私がここ十年くらいで学んだ経験則なのだけども、つまり感情や出来事やことの経過や結果を言葉として蓄積しておかないと私は私でなくなる・自分自身が遠ざかる、という意味なのだが、彼と一緒に暮らすようになってから「書かなくてもある程度は平気説」が浮上してきている。

 

 DP/DRな感じになるのだ、書かないで居ると。現実が遠く感じられるというか、他ならぬ自分自身から断絶されるように感じるというか。だけど彼と実際に二人で暮らしてみると、家事やら二人の時間やらが割と優先されるからして、少なくとも書くことに「没頭」は出来なくなった。昔から私は書き始めると周りがあんまり見えなくなってメシも睡眠も忘れて煙草だけは忘れずに書くことだけに集中するという性質で、それはまあここ数年で治しつつあるんだけど、とにかくその頃のような「没頭」はもう出来ない。晩ご飯を作らないといけない・彼のシャツをアイロンしなければいけない・トイレを掃除しなければいけない、といった諸々が、つまりは「生活」が当然優先されるのだ。正直なところ、たまに、全てを投げて書くことだけに集中したいと思うことは今でもあるが、生活と書くことは恐らく両立出来る行為のはずで、私はそこを両立したいしもっと言えば働くこととも両立させたいのだ。

 

 届けたい人は居る。言葉というか文章というか、自分が書くものを届けたいと思う人は、一人居るのだ。あの人。あの人に届けるために書くと言うと嘘になるけど、結構なモチベーションであることは否定出来ない。だけど彼と居るとあの人の比重が、存在の比重が、何というか、微弱に狂う。彼とあの人は決して同列には並ばない存在。私は彼を心底好いているし共に生きたゆきたいと思うのだけど、それでもあの人には例外的措置が採られていて、いつか絶対届けてやると息巻く時、私は自分があの人をどうしたいのか、よく分からなくなる。距離感も狂う。私はあの人と自分がちょっとした異常事態的な感じでつながっていることに自覚的だ。中途半端につながってるからこそ、余計にきちんとした形で届けたくなる。悔しい。忸怩たる思い。

 

 昨日実家から荷物が届いて、それはお米だったり頼んでいた衣服だったりするのだが、届けてくれたのがいつも来る禿頭のおじさんで、いつもありがとう、今日は風が冷たいね、なんて声をかけてくれたんだけど、私は彼のぴかぴかの頭皮と赤っぽい小さな痣に目を奪われて、そうですね、もう雪は嫌ですね、お世話様でした、そんなことしか言えないのだった。