日々の思考の公開処刑

集めたりしないで

フレキシブルに二月

 今日から世間的にもカレンダー的にもまごうことなき二月と相成って、寒いね寒い寒いと日々防寒に腐心している訳だけど今はなんか晴れてて日光もわいわいと室内で拡散していて心地よいといえば心地よい、が、明日からまた平日五連発という事実はこれ決して消せないので、まあ数時間フライングのサザエさんシンドローム、しかも無職なのにいや無職だからこそかそういった症候群、やや憂鬱である。金曜日だったか、知人が物凄く役立ちそうな料理サイトをシェアしていて迷わずブクマしたのだが、そこのレシピにある手間暇・物理的技術・食へのこだわり・いっそ崇高な殉教者的な風味、そういったものに圧倒されてしまい、そもそも料理の用語、食材の名前や切り方の名称が分からないという致命的なド素人はやはりクックパッドを「簡単」でググるしか手はないのかな、とは思えど私も人間であるからやる以上には成長したい。「作り置き」とかしてみたい。今週は頑張ります、と言うこの口は、先日スーパーに行って彼のために牛肉を調理して振る舞おうと決めていたのにいざ牛肉コーナーに来たらその真っ赤な肉の値段がもう、予算を三倍くらい軽くオーバーしていて重く逡巡、結局特売だった調理済みの鶏肉を買ってきて焼くだけ焼いたこの口は、先ほど昼飯代わりに食べたすっぱムーチョの余韻に未だひたっている。あかんがな。

 自宅というのは今の私からするとトーキョーのここ、この部屋であるのだが、平日×5の間に自宅というプライベートスペースにおいてリラックスどころかメンタル的に良くない方向に行ってしまうのはなにゆえ。まあ予期不安ゆえ。多分。でもね、私が働くか否かに関わらず、今後かなり長い時間をかけて平日をやり過ごし土日を謳歌する、土日に動く、土日に癒される、土日に何かする、といった土日を追う生活が続くんだよ高確率で。それを改めて認めてみたけど違和感というか鼻の穴の中で毛だとか汁だとかが凝固しちゃって無視出来ない感じ、みたいな感じは拭えなかったよね。これは私が平日も土日もないアレな生活を長くしていたせいだと思うのだけども。それにしてもこの「土日様」とでも呼びたくなるような土日への熱烈な愛、思えば奇妙なものだし月火水木金のないがしろにされっぷりもまた無残。もっとさー、平日に踊るとか平日に愉しむとかさー、フレキシブルに生きていこーぜー、と無職の口は言えないのである。

 アルバイトを、短時間のアルバイトを探しているのだけど、週五・一日八時間からでプライベート充実とか言ってる企業の方はプライベートが常人の五分の一しかないんじゃないかと思ってしまう。……と書いたらタイピングしてた指がたっぷり七秒くらい止まってキーボードの上をふよふよと彷徨った。やはりこの話題はいい感じに転がらない。とか書いてたら彼が昼寝から目覚めて多分これから出かけると思うので失敬失敬。

降雪、積雪、極寒だ

 朝起きて、ん、今日は結構冷えるな、と肌で察知したがまだ日が出ていないし我が家はオール擦りガラス、外界がどんな惨状になっているかは知らずに彼を起こし、毎朝七時に届くお天気メールを見ると「雪のち雨」。おやと思って通りに面した窓を恐る恐る開けてみれば白白白、空も通りも窓の縁も白く、上から下へ更に白い粉のようなものがざんさかと。お天気メールによると、最高気温、2℃。冷凍都市トーキョー、極まってんなぁ。

 未だ体調が本調子でない彼を送り出し、流石に寒いのでエアコンの下、即ちベッドに身投げし、カーボンヒーターとどちらを使うべきか、結構真剣に考えた。それから今日は歯医者の日だったと思い出したが何しろこの雪、粉雪ではなくぼたん雪になっていたがとにかく雪、これは徒歩は厳しいだろう、寒いし、ダルいし、なんてやっていたら彼女から連絡があって遂に人工関節の手術を決めたと聞く。まだまだ先だが、手術日は顔を見に帰った方がよさそうだ。彼女の四方山話は尽きず、といっても話したのは三十分弱であったが、私は歯医者のことなどすっかり失念、というのは嘘で、風邪引いたことにして予約を取り直そう、などと思いながらやはりカーボンヒーターを使用するのは勇気が要って使用せず、だがしかし、歯医者の時間になるとどういう訳かコート・耳当て・マフラー・手袋を装着して部屋から出た。絶対ブッチすると思ったわー、前回もこんな感じだったわー、と階段を降り、通りに出る。

 降雪、しかも結構吹雪いている、積もってもいる、積雪である、その中で歩くのはなかなか困難で、結局歯医者から帰るまでに三回滑って転倒直前までいった、三回。傘はほとんど機能せず、吹雪なんて2002年のマンハッタン以来か? と自問したら、いや、確かに去年ももっと降ってたけど、うん、ここまで吹雪いている中を実際に歩くのは確かに久しぶりである、という帰結。
 2002年のクリスマス、ユニオンスクエアのCD屋に行こうとしたら、サブウェイの駅から出た瞬間ブリザードに襲われて、店までちょっとだけ歩いたけど凍ったね、顔が。そんでかの国ではクリスマスは家族と粛々と過ごす日であるから、CD屋はやってたけど普段のごった返しぶりが冗談かのようにがらんと閑散としていて、エスカレーターが動いてなかったのを何故か覚えている。自分にクリスマスプレゼントをね、そう思って店員にルー・リードのアルバムどれがあるか聞いて。対応してくれたのはエリオットという二十歳くらいの、若い頃のトム・ヨークに似たひょろっちい青年で、しかしヴェルヴェッツ関連の話になったら弁舌がね、かなりヒートアップして、聞き取れないレベルで。とにかくヴェルヴェッツとかあの辺の音源ならここよりダウンタウンの**レコードが充実してるよ! って、キミ店員だろう。そんなエリオットが推してきたのがアルバム「ベルリン」であるのだが、彼の熱意に負けて購入してクイーンズのアパートに帰ってだね、ラジカセに入れて再生したんだけどルーの声が聞こえる前に寝落ちしたような。そんなクリスマス。

 今流石に寒くなってエアコンを切ってカーボンヒーターを稼働させてみた。末端が温もらないのがきついな、右半身ばっか熱くなるし。風呂上がりは重宝しているのだが。外の雪は雨になっただろうか、と首を傾げるか再度、我が家はオール擦りガラス、分からんし窓を開けてまで確認するほどの疑義でもない。歯医者に行っただけなのにどうしてこんなに疲れているのか。昨日の辛さが響いているんだろうか、と思って確認したら今日まだ頓服を飲んでいない、わお。昨日は酷かった。不調で泣いて、吐いて、過呼吸起こしかけて、久方ぶりの希死念慮、平たく言う「死にたい病」と格闘、いやあ、数時間で落ち着いたからよかったけどきつかったな、ああいう時はやはりまともな精神科医と話したいと切に思う。比べて今日は落ち着いている。気付いたら午後になっている。太陽、おまえがおらんから時間の感覚が曖昧だ。太陽、太陽、太陽。

青春、ヘンアイとまたあの人の話か?

 青春っていうのは十代とか二十代前半に体感しなければいけないなんてことは決してないと思うし人間幾つになっても何かに熱を上げたりのめり込んだり出来る生命体のはずで、しかし青春というのは一体何だろう。自分の青春はあの時期とか、いつからいつまでとか明確に考えていたり提示する人も居るんだけど、私は断固戦いたい、一生青春出来るはずだと。七十才からの甘酸っぱい青春、かっこいいじゃん。

 

 しかし自分の青春、一般的に青春と見なされる時期は幸か不幸か私にもあったのだ。高校は一年の一学期しか行かなかったんだけど、その一学期が全くアオハル、気の置けない仲間が居たり憧れの先輩がおったりちょっとした火遊びをしたみたり、嗚呼なんか典型的過ぎて我ながら泣けてくる。でもその青春楽しかったかと言われればそうでもないし、高校辞めてからも青春あったし、NYに居た時は青春よりもメンタルが瀕死、帰国してしばらくしてから変な大学に入ったんだけどそこでも青春っぽい体験をした。年齢的にはこの辺りが私の青春の限界。

 

 疑問なのだが青春というのは恋愛要素を含まないといけないものなのだろうか。「青」というブルーと「春」というどこかピンク色を想起させるこの青春というやつに、恋愛、しかも片思いならなお良し、的なニュアンスを感じ取ってしまうのは何故だろう。しかし青春=恋愛にしてしまうとこれ年齢とかもはや関係なく単なる恋愛期を表す単語になってしまうがそれはちょっと青春っぽくない。今Yahoo先生の辞書に青春の定義を聞いてみたいのだけどここは一つぐっと我慢、耐えてもう少し独りで不毛に考えてみたい。

 

 恋愛は別に人生の必須イベントでは決してないのだけども、「偏執狂的愛情」略して「ヘンアイ」は割と必須というか、いや履修しないと留年という訳ではないしそもそも人生を留年って響きがまた面白いけどそれは置いて、ヘンアイはね、私個人の意見ですが、ないよりはあった方が日々における何かしらの潤い、歓喜や落胆、失意や多幸感、それら色々をよりビビッドに味わえるように思う訳。勿論ヘンアイ対象は人間である必要ではなくて、それどころか三次元である必要もなくて、とにかく恋をする・焦がれる・たぎる、そういう対象はやっぱ、欲しいなぁ私は、と。作家の筒井康隆先生が著書「創作の極意と掟」の中でこういったヘンアイの重要性を説いていた。それは創作に必要なものといった意味合いで「密かに想い続けること」と書かれていたんだけど、別にクリエイターやそれ志望者のみならず、誰もが何らかをヘンアイしておれば様々な感情に襲われてそれは時に辛かったりもするのだが、平坦さや無感情の状態を求める人以外は、やっぱ必須っつーかベターなような気がするのだ、人生の純度的に。

 

「それって要は趣味に没頭しろってことなの?」

 うーん、趣味でもいいんだけど命がけの趣味だとなお良し、みたいな。当然ね、そんな生き甲斐なんて全ての人が得られる訳じゃないから、ただ今青春真っ直中に居る若者諸君は人生を賭すに値するヘンアイ対象を今の内に探しておけばいいんでないかな。別になくても死なないけどさ。

 だけどよくよく考えたら青春と呼ばれる時期に独り密かに趣味というヘンアイを磨き続けていたら実体験としてのアオハルは得られないのか? これまた青春というと仲間が居て、みたいなイメージがあるけども、私は独りっきりの青春も大いに有りだと思うクチではあるが、そこは各人が青春に何を求めるかで変わるか。どうかな。

 

 とかいうことを考えるのは最近私自身がヘンアイ不足というか、ヘンアイの形が変わってきているからだと思う。過去にヘンアイしたのは主にロック・ミュージシャン、勿論今でも大好きな人は居るけど、音楽を執拗に追わなくなったように、彼らに惹かれる度合いも私の中では変化しつつあるなぁ、とつくづく。彼という恋人の存在、真っ当な恋愛をしているのも関係しているかも分からんが、うむ、でもちょいとばかり固執するというか追いたい存在もまた、未だに、居るけど。その意味合いにおいては、私もまだ青春の渦中で溺れかけているのかもしれない。泳げないことはないけど、動きが非常に遅い、だから多分息が続かない、だから必死で呼吸。呼吸をして。

やっちまった音頭

 久々のやっちまった音頭をぐるりと踊る、午前三時前から。いやね、別所からここに人を誘導する関係でGmailの設定をいじってるんだけどこれがもう、ね、何なのこのインターネット本気で二十一世紀なのーと語尾を延ばす感じで、世界の中心ではなく隅の方から反対側の隅まで届く声で叫びたい。実は午前三時前からGmailWindows Live Mailと格闘を始めてロヒという眠り薬を飲んでいたにも関わらず頭が天晴れ、あっぱれあまばれ、結局朝五時に寝て一時間後に起きて彼を送り出し、それから正午までありとあらゆる攻略サイトの類を見て見て見て見て試すけどダメ試すけどダメを繰り返し、Yahoo先生に聞いてみたりしながら昼メシを食うのも忘れる程度だったんだけど流石に寝ないと夕飯作れんと思い午睡、起きてからYahoo先生の教えに従うもやっぱりダメダメダメ人間、四時に買い出しに行ってメシは用意したものの掃除機かけるの忘れててもうめんどいから手動で軽く床掃除、這いつくばって惨め。

 

 そんな訳なので彼が昨日買ってきてくれた絲山秋子姉御のエッセイ「絲的炊事記」も読めていない。遺憾である。というかアレだ、やっちまった音頭が何故やっちまったなのかというと、食事や睡眠を忘れ「病的に没頭」を久々に無意識にしかも本来の目的を忘れてやらかしてしまったから、というのが理由で、私はこの「病的に没頭」が出ると衝動行為も衝動と気付かずに寝食忘れてのめり込んでしまう、しちまう、この有様だ。でもまあ、自らに課すように仮眠は取ったし、疲れと眠気と失敗の嵐で気分悪かったけど夕飯作ったし、まあ敢えて言うならまたも就活見られなかったってマイナスポイントはあるけども、昨日同様、夕飯作りを終えた今、気分は少し軽いっていう。

 

……というところまで書いて寝落ちした昨日、結局Gmailは妥協策で使えるようにはしたんだけど。

眠るべき、苦痛と共に眠るべきだ

 ぱたぱたぴとぴとという雨音が響く午前二時二十分、イヤホンを装着するか悩む。そういえばこの部屋には時計がないからあの秒針のチッチッという脳髄刻まれそうな無情な音がしなくて幾分か楽ではあるが、時計がないならないでこれたいそう不便。

 

 先月エアコンのせいで電気代が、やあやあこれは遂に来たね、といった程度に高騰したのでカーボンヒーターなるものを購入してみた。私としてはセラミックファンヒーターを希望していて無印良品にて安価でデザインもラブリーなものを発見してはいたのだけど、かかる電気代、これがまたエアコンの倍くらいかかることが発覚し本末転倒、あの白くて丸っこいデザインには心底惚れ込んでいたけど結局今私の左半身をぬくめているのは白でもなく赤でもなく茶色のような紫のような微妙な色合いのヒーターである。末端がぬくもらないのが非常に手痛い。正直なところ少しばかり後悔しているかもしれない。彼の寝息が聞こえる。雨音が激しくなってきたのでイヤホンを装備するかしばし逡巡し、結局耳に差し込んでサイモン&ガーファンクルを再生。

 

 若い頃は入眠に非常に時間がかかっていて、朝方まで寝付けずどうしようどうしようと焦りながら日の出と共に寝て昼過ぎに起きるみたいな生活が随分長く続いて、日光が大好きなくせにああいう時の日の出はほとんど絶望的なやっちまった感を助長させ、そう頭が冴えるのがね、午前三時とかになってしまっていた。それが今は午後十時までには寝て午前六時に起きているのだから人間変わるもんで。しかし今日は薬が効かない。なるべく昼寝はしたくないし明日の午後は友人とスカイプの約束があるからして要は一刻も早く眠るべきなのだが、ベッドで布団に身を挟んで悶々と睡魔を待つ、しかも寒い、更に隣で眠る彼は寝相が悪くて嗚呼、もう少し鋭い何かが欲しい。この身体に。

 

 ロヒプノールをもう一度追加しようかと。

ハピネス、done!

 切望していた絲山秋子さんのエッセイは彼が仕事帰りに大型書店で買ってきてくれることになって夕飯の支度を終えた今とてもハッピー、スキップなどしたくなる。しかしおかしなもので、今朝は地震で一気に気分が陰鬱陰惨凄惨として四時間半も拘泥し、午後になって本屋とドトールに行って買い出しに行って、その間も例の声は聞こえていたはずで、備忘録を見れば随分と頓服薬を飲んでいるというのに、あ、例の声というのは私の症状の一つで幻声に近いものなのだけど、とにかく一連の家事を終えて彼の帰りを待つ今、気分というか頭というか脳の動き、機能がすこぶる快適・快調であることに驚きを隠せぬ。終わり良ければ何とやらなのか、はたまた夕飯作りというミッションを完遂した達成感であるのか、単純に絲的エッセイが楽しみなのか、まあよく分からないけど今日というか今は悪くない。気がする。

 

 先ほどツイッターで発見したのだけど、町田康の読書会というのが来月行われるらしい。詳細はまだ見ていないのだけど、生で町田康さんを見たのは2004年? 「パンク侍、斬られて候」のサイン会以来であって、しかしながら私は「告白」の途中で挫折してその後はほとんど読めていないのだよ。そんなんで参加していいんだろうか。課題図書は昨今よく目にするもので興味がない訳ではないが、そう文庫本、今単行本を置ける棚がなくて出来る限り文庫本を買いたいのだよ文庫本。絲山さんのエッセイだって彼には文庫を買えと念を押しに押し押し。それ以前に開催地が神奈川県と書いてあったのだけどトーキョーからどう行くのだ、日曜の昼だからまあまあ行けないことはないだろうが交通費がね。お金。いつもそうだ。お金の前で私は無力。

 

 さっき「今日は悪くない」と言い放ったこの口だが、これから「ただし」を発する。ただし、就活は出来なかった。正直こんなん書いてないで求人でも見ろやという声も少なからずする訳であるが、声なき声、医者が言うには私自身の無意識の叫びだとか機能性幻聴だとかとかく彼らの意見は一定しないのだが、それら声声声に振り回されるのはかなりだいぶ相当しんどいことで、時には今日のように声だとか自責の念だとかをガン無視して精神衛生に気を遣うのも有りだと、私は思う訳だけど、それも甘えだろって声、やかまし

 

 日々しのぐ。何かをしのぐ。しのいで生きていく。前の主治医は毎回診察の最後に「じゃあ次回まで何とかしのげますように」、目一杯の笑顔で言うのだった。しのぐ。何を? それは生きづらさであるかもしれないし自己否定自己否定自己全否定ないし自責の念、自らの首を絞める自らの手であるかもしれないし、もしくはアレ、外的な、もう自分じゃどうしようもない困難苦難、その類であるかもしれないし、或いはシンプルに「生きる」ことをしのぐ、の、かもしれないね。

その色に飽きただけ

 買い物から帰って買ったものを冷蔵庫などに納めて米をとぎ、新しい煙草を一箱取り出してそこから更に一本を取り出し火をつけ、ふはーと煙を吐くと煙草のフィルターが赤い。今日はルージュの類は塗ってないのになにゆえ、と思いよくよく観察してみたら中指の第一関節から微量に出血しているのであった。いつどこでどのように切った。それは不明である。痛みも微弱、ほとんど気づかぬほど。出血、赤、痛み、煙草。
 思い出す。日常的に身体を切り付け毎日血を見ていたこと。
 断続的に十五年ほど続いた行為は昔の私の仕業であって今私はもうカッターや包帯の世話になったりはしない。しかしこれは私が強くなっただとか成長しただとかいう理由ではなく、私は、ただもう飽きただけなんだと思いながら、私は、色々な言葉や色々な人々、私は、その色々な傷痕を脳裏に映しながら煙草を吸う。